朱雀野にて

一次創作を書き散らしたりお知らせしたり

師走、蔵前にて

 遺書を書こうと思った。

 

 元より不出来な人間であることは重々承知だったけれど、それでもわたしにとってここ数ヵ月は、まるで小さな地獄のようだった。書き物の仕事に就いていながらろくにものを書かせてもらえない、かと思えば、それまでに培ってきたものとは異なるものを指示される。けれど、しきりに言われるのは「任せているから好きにやってみて」。毎日どうすればいいのか不安だった。何をやっても、靄を掴むような感覚だけがあったことを覚えている。

 それでも、わたしひとりに任されたことなのだからと、周りの人間に迷惑はかけまいと懸命にこなそうとした。寄せられた期待には応えたかったのだ。他者が認めるわたし像を守りたい、という矜持もあったし、それができないのは他ならぬわたし自身が許せなかった。……にもかかわらず、わたしは成果を出すことができなかった。自分が悪いとしか言いようのないミスの連続で結局他者の手を煩わせ、挙句の果てには仕事をひとつ駄目にした。あの徒労、どうすれば良かったのか分からない霧隠れ。思い出すだけで吐き気がする。

 立て続けにそんなことが起きたおかげで、わたしの惰弱な精神はすっかり参ってしまい、夜中の自室であろうと出勤途中のバスであろうと退勤中の道すがらであろうと、所かまわず涙が出るようになった。仕事に行きたくないと思った。何もしたくないと思った。身体を動かすのが億劫だった。そこまできてようやく、元より塞ぎやすい性分であるというだけでは説明のつかない希死念慮が沸き上がっていることを自覚し、わたしはしばしの暇をもらったのだ。

 かくしてわたしは、実に堕落したしばしの安息を手に入れた。そして何もできずに布団の中で一日を消費していく現状を憂い、いよいよ、死んだほうがましなのではないかと思った。

 ひとりになると、途端に無気力が襲ってくるのだ。いつまでも風呂に入る気が起きず、携帯電話の液晶画面を無作為につつくばかりで、頭をまともに使わないソーシャルゲームのリザルトだけが積み上がる。何も考えたくなかったし、考えられなかったから、豪勢な旅行ができる程度の金額をいたずらに課金したりもした。そんなことにやっと飽きて入浴して、牛乳を飲んで、そして眠るのが明け方だった。

 自堕落を繰り返していれば、弱った精神が己を恥じるのも当然だ。どうして早くお風呂に入って眠る、それだけのことができないんだろう。思い悩んで、このまま休みが終わってもわたしは悩み続けるのではないか、そう思うともう死んでしまいたかった。早く楽になりたかった。死ぬ方法など思いつきもしないのに、少なくとも両親が生きているうちの自殺はやめようと思ったのに、不意に線路へ飛び込んだりしてみたくなった。

 だから、遺書を書こうと思った。

 もしわたしが本当に死んでしまったとしても、そのことについて気に病む者が現れないように、である。わたしは沢山の人に愛してもらえて幸せだったと、それでも戻ってこられずに申し訳ないと、ひとえにこの死はわたしがただ欠陥品であったがためのものだと、弁明しておきたかったからだ。

 

 どうせ書くなら、とびきりのものがいい。

 そう思って、わたしはいつしか噂で聞き及んだ、あるいは麗しき先輩が持っていたのだったか、「自分でインクの色の配合ができる万年筆」を買いに行った。好きな色を選んで混ぜ合わせて、自分の好みの色の万年筆のインクを作れる、という予約制の店である。ゲルボールペンに入れて使うこともできるとのことだったけれど、せっかくであるなら持っていない万年筆で揃えたい。わたしはその店のホームページをじろじろ眺め、アクセスも住所も見づらいつくりに辟易しながらそこへ向かった。

 都営大江戸線に揺られて二十分、蔵前。見慣れない小売店のようなものが立ち並ぶほかには別段栄えた調子のない街(駅前はいくらか賑わっているが、物理的に傾いている古書店などがやたらに目を惹く)で、わたしは数回道に迷いながら、ようやくその店に辿り着いた。

 書森、と言う名前を持つ文具屋の、インク配合専門店舗。文具を扱う方の店舗は、このところ移転して少し遠くなったらしい。そこでわたしは、店員の指示を受けるまま、ビーカーに三色のインクを垂らしては混ぜ、試し書き、配合を変え、それらを繰り返した。わたしのほかにはカップルが一組と、ひとりで来ている女性。四人が並んで、各々理科の実験のように、十四色用意された基本色からみっつ選んで己の理想を探していた。

 

 血の色に似たショッキングピンク。

 濃紺のような深い紫。

 鈍った隕石の灰色。

 

 わたしが基本色としてそのみっつを選んだのは、わたしの綴った物語を「群青、あるいはワインレッド」と称した学友がいたからだ。小説を読んだ際に色を思い浮かべるという共感覚の持ち主であった彼女は、わたしの作品にその色を授けてくれた。初めて作品集を出した際にその名を『群青』としたのも、それがきっかけとなっている。

 群青とワインレッド、あわせれば要は紫である。そう思って、わたしは色を選んだのだった。灰色を加えたのは、きつい色を見るに能わないわたしの今の脆さを考えてのことだ。それに、先の共感覚の学友が送ってきたカラーサンプルも、さほど彩度の高くないものだった。

 七回にわたる試行錯誤の結果、わたしは配合にやっと満足し、その配分表を店員に渡した。額の広い穏やかそうな女性店員は、それを元にインクを作り始めた。出来上がりは四十分後。わたしはその間に店を出て、革製品のハンドメイドとカフェが同居した小さな工房で、クリームチーズの乗っかったにんじんケーキとホットチョコレートを朝食代わりに食べた。時刻は十二時五十分だった。不味くはないが、二度食べたいと思うにはいささか足りない味。無聊の慰めに咀嚼しながら室生犀星ウィキペディアを読んでいたら、最終的に萩原朔太郎の娘が、自身の叔母(朔太郎の妹)と三好達治の夫婦関係に関する小説を書いていたことに辿り着いた。

 食事後インク店に戻ると、店員が品物を揃えて、丁寧に会計をしてくれた。

 

 そうやって出来上がったものを、自宅に帰って、インクとともに誂えて買った万年筆に注いでみた。コピー用紙に思いつくフレーズをずらずら書いて、滲みや強弱、それで変わる色を見た。鬱屈した一文を書いた。鳴き声が響いている/僕が何も得られんと泣く/その獣の声が響いている。さあ我が名を呼んでくれ/愚かに憂いて。ああ私はただ一つ何かに秀でていればよかったのだ/赦してくれ赦してくれ/墓参りに行きたい。愚かな私の名を/あなたに泣き叫んでほしい……。

 いくらでも書いていたい気持ちになった。

 いつぞやの一人旅で伊香保に行った際立ち寄った、竹久夢二記念館で買った一筆箋に、歌を詠んで書き連ねてみたい気持ちになった。なんでもいいから、このわたしの具現化たる色のインクで、言葉を紡いでいたかった。

 

 手のひらの大きさの瓶には、群青とワインレッドの混血児がなみなみと注がれていて、どこまでも深い夜のような色を見せている。これだけの量のインクは、遺書を書くだけではとても使いきれなさそうだった。

 わたしは、遺書を書くのをやめた。

11/23文フリ東京 ありがとうございました

ご無沙汰しております。

お礼ブログちゃんと書くよ!と言ってからすっかり時間が経ってしまっていてすみません。詳細は書きません(後々日記・私小説あるいは紀行文の形で残した際に少し触れるかも)が、精神をほんの少し病んで、しばらくお暇をいただいておりました。ようやく少しずつ、前向きになっていこうと思って、やりかけていたブログを書いております。

こうして仕事以外でパソコンに向かうのも随分久しい。キーボードを叩く感触がなんだか懐かしい。小説の書き方を忘れていないか心配です。先述した日記・私小説・紀行文も、リハビリのようなものとして書きつけておこうと考えて決めました。早く元気になりたいな。わずかな貯蓄を食い潰していく感覚は、ますます心を蝕んでいくような気がする。

 

さて、それはひとまず置いておいて。

さる11月23日の文学フリマ東京、誠にありがとうございました。

 

周囲のサークルの様子や通り過ぎる人達を眺めながら、ああこれは申し込みジャンルを間違えたかもしれない……などとぼんやり考えながら、延々擬人化(?)した文豪を先頭に向かわせたり、英霊を復刻クリスマスイベントに向かわせたりしていました。

わたしの扱うものは大衆小説ではなく純文学に寄っているという発見や、文字しかない以上何か引きつけるようなサークル紹介文を書くべきだという発見ができ、次回に生かす反省を得られたものと思います。

その中でも当スペースまで足をお運びいただきました方、誠にありがとうございました。数多くのスペースの中から見つけていただけて、本当に嬉しかったです。このブログで掲載していた小説(「きみのトルソー」かしら?)を読んで興味を持った、と仰っていただいたお嬢さま、あるいはお姉さまの存在は、わたしにとって悪天候で始まったこの文学フリマの一筋の光明のようでございました。かのお方はこれをご覧になってくださっているかしら、わからないけれど、次も誠心誠意頑張りますのでどうぞお越しいただけたら幸いです。

もちろん、此度の文学フリマでは「朱雀野にて」をご存じなかった方も、次はぜひお越しいただけたらと思います。

 

次のイベント参加は来年5月、文学フリマ東京です。

麗しき原石かんな先輩との合同サークル「朱雀野にて、現象」で、ロックバンド「女王蜂」の楽曲からインスパイアされた作品を収録した合同短編集を発行いたします。カテゴリーは純文学で出ます。お互いに3本ずつ書き下ろす予定です。早く精神衰弱を直して執筆にとりかかりたいもの。

サークルスペースのディスプレイや当日のわたし達の服装(コスプレはしません、規約はきちんと守ります)など、夢の広がる会議をたくさんしています。わたしの方は今回の新刊だった『驟雨』と8月コミティアで出した既刊『群青』も持っていきます。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

1123文フリ東京 新刊サンプル

土日にひたすら廃人生活していたら、いつの間にやら文フリが今週に迫っておりました。前日は大きめの仕事入ってるしちょっとちゃんと生きていられるかな……

新刊脱稿してからすっかり気がめいってしまって、今なにも書けていない状態なので、二次でも一次でもまたゆっくり復帰できたらいいなと思います。とりあえず文フリ当日までは(あともう何日もないけど)ゆっくりするぞー!

 

11/23(木祝)第二十五回文学フリマ東京

C-54   朱雀野にて

 

新刊『驟雨』600円

少女の執着を描いた2本の小説を収録しております。1つは学生時代の卒業制作を加筆修正したもので、もう一つは完全書き下ろしです。久々に一次創作書いたから何かすっごいヒヤヒヤしましたし軽いうつになりました。内容はそんなに暗くないんですけど……

小説を書くことってつらいことだったなあ、って久々に思い出した気持ちです。

サンプルはこちら↓

www.pixiv.net

 

当日はどうぞよろしくお願いいたします!

アフターは焼き肉がいいなあ(定例)

11月23日文フリ東京出ます

お久しぶりです。島原です。

すっかり更新が途絶えていましたが、性懲りもなく生きていました。二次創作の原稿やったり、ソーシャルゲームにアホほど課金したり、若手俳優の追っかけ始めたり……生きていることは楽しいです。そこに未来は多分ないけど。

そんな未来のないわたしの、ほんの少し未来の話をします。

11月23日、文学フリマ東京に出店します。人生初の文学フリマ。行き慣れた同人イベントとどう違うのか、今からドキドキしています。

 

スペースはEホール(1階)C-54「朱雀野にて」

 

エンタメ・大衆小説でスペースをいただいております。当日は新刊「驟雨」と、コミティアで出した既刊「群青」を持っていくつもりです。あとは、お手伝いとして大学時代の先輩(文芸創作ゼミの先輩です、わたしの憧れの人)である原石かんなさんが来てくださいます。かんな先輩と5月の文フリで出す合同誌のフライヤーも配布しますので、ぜひお立ち寄りいただければ幸いです。

また新刊のサンプルを掲載したらお知らせに来ます!

 

 

***

 

 

さて、すっごくいまさらなのですが、コミティア121お疲れさまでした。人生初のコミティア、とても緊張しましたが新鮮な気持ちを味わえてよかったです。新刊が1冊も出なくて(正確には委託させてくれたリア友・ひいちゃんが1冊買ってくれました、ありがとう)、これが一次創作の厳しさか……と身につまされたような心地でした。それでも、二次創作からの繋がりで事前・事後通販を利用してくださった方もいたので、これからも細々と頑張っていきたいと思います。

お礼のブログを書けなかったのは、コミティア前後ですでに二次創作の原稿期間に入っていたからです。ブログを書く時間があったら一行でも小説を書けという話でして、結構な追い詰められ方をしながら別ジャンルの創作をしておりました。おかげさまでそちらも無事に新刊を出せたのでほっとしています。こちらをおろそかにしたわたしの怠慢をどうぞお許しください。

今回のコミティアの後は、また二次創作でイベントに出ます。ただそれも2月なので、前回のようにお礼ブログをサボることはないと……信じています……

新刊の通販もまた事前通販はするつもりです。ただ、コミティアでの惨状を受けて前回より部数を絞っておりますので、お求めの際はどうぞお早めにお願いいたします。

お申し込みはこちらのDMからお願いいたします。↓

twitter.com

 

それではよしなに。

このところはずっと疲弊していて、どこでも立ってても眠ってしまいます。文フリ当日は元気な姿をお見せできればいいなあ

8/20 COMITIA121お品書き

こんばんは、島原倅です。

気がついたらもう今週末がコミティアでした。お品書きとサンプルのご案内です。

 

・お品書き

www.pixiv.net

今回委託させていただくサークル「宵々屋」のサークル主・ひゐちゃんがあげてくれました。

 

・サンプル

www.pixiv.net

 

以前ブログに上げたものも含めて、収録全6編の冒頭サンプルを掲載しています。

エロとかグロとかちょいちょいありますが、ご興味ございましたら是非お手に取っていただけると活力になります。

 

それでは、当日はどうぞよろしくお願いいたします!

8/20 COMITIA121、委託参加します

こんばんは。島原倅です。

部屋に冷房のなかった学生時代はバンバン夏バテして不健康なスリムボディを獲得していたものですが、自室にクーラーが設えられてからというもの、すっかり夏バテしなくなったのでぶくぶく太っています。運動しないくせに三食食べるからこうなる

文明の利器に頼り過ぎて、ここしばらくは粘るような汗も寝苦しい夜も忘れておりますが……皆さまはいかがお過ごしでしょうか。熱中症にはどうぞ気を付けてくださいね。

 

そんな夏の盛りでございますが、もう少し先の8/20(日)、東京ビッグサイトにて開催されるコミティア121に委託の形で参加させていただきます。

かれこれ8年近い付き合いになる友人・ひいちゃんのスペースにお邪魔して、学生時代の作品を加筆修正した短編集を頒布いたします。コミティアは買い手としても行ったことがないのでドキドキです。

 

スペース:ふ02b「宵々屋

 

にてお待ち申し上げております。ぜひ遊びにいらしてください。

頒布物のサンプルなどは、また折を見て告知いたしますね。何卒よろしくお願いいたします。

 

また、サークル名刺なるものも作ってみました。

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何でもないような台詞を入れてみたりして。

こちらも頒布物とともにお配りいたしますので、よろしければもらってやってくださいね。

 

それでは、かしこかしこ

きみのトルソー

8/20のコミティアにて委託する短編集に収録する作品です。

 

***

 

 

 肌色の肉塊が蠢動している。硬そうな背中が芸のない前後運動を繰り返して、その度に押し潰されそうな華奢な肢体が跳ねて喘ぎ声を上げる。中途半端に開かれた部屋のドアの隙間から覗くその光景に、私はただ立ち尽くすほかに術がなかった。

 

 

 

「やっと見つけた! 私の理想型!」

 榎本くるみにそう声をかけられると同時に抱きつかれたのは、服飾の専門学校に入学して三ヶ月ほど過ぎた、梅雨明け頃のことだった。

この進路は手先の器用さ以外に取り柄のない私に、「芸は身を助けるって言うでしょう」と母が勧めた進路だ。勉強にもスポーツにも秀でた快活な弟に比べて、私はどれをとっても中途半端な子供だった。物音も立てずに、いつも一人で父方の祖母から習った編み物をしている、ぱっとしない子供。優秀な弟ばかり可愛がられるのも当然のことで、同居していた祖母が亡くなってからは、さらに私の居場所は狭くなった。だから母としても、進学を理由に私を家から追い出したかったのだと思う。

私は別段逆らうこともなく、両親が進める手続きの通りに上京して進学した。住む場所だけは自分で決めなければならなかったけれど、学校から近いことだけを理由に、適当な物件の角部屋に決めた。入れ替わりで隣人が学校を卒業して引っ越したからご近所付き合いもなかったけれど、人がいようといまいと私には関係ない。誰の迷惑にもならないよう、隅で黙って裁縫をしているだけ。そうして学校でも一人ぼっちのまま、繰り返し毎日を浪費していた頃だった。

くるみは新入生の代表挨拶にも選ばれた優秀な生徒だった。基礎クラスが同じで彼女のことはよく見かけていたけれど、私の弟のような、勝ち組の人間だと思っていた。小さな顔の中に、長い睫毛に縁取られた大きな瞳と高い鼻、そして柔らかそうな厚い唇が行儀よく並んでいる。百五○センチ前半辺りの小柄な身体に、フリルやレースをたっぷりあしらったフェミニンな服がよく似合っていた。課題とは別に私服も自作しているらしく、自分に似合うファッションを把握している聡い人だという印象もあった。いつも男女を問わない人だかりの中心にいて、皆から愛される憧れの的。私が一方的に羨望している以外に、関わることなどあり得ないはずだった。

動揺する私から離れた彼女は、「あなたの身体に一目惚れしたの」と言う。いやらしい意味ではなくて、モデルやマネキンとして。確かに私は百七十センチを二センチほど上回る長身で痩せ型だけれど、女らしい柔らかさが欠けた貧相な身体はコンプレックスでしかない。しかしくるみは「こんなコルセットしてるみたいなくびれの人、初めて生で見た!」と、抉れたような腹回りを一番に気に入ってくれたらしいのだ。彼女は艶やかな唇で弧を描いて、

「私の専属モデルになってよ」

と私を挑発的な瞳で射抜いた。

どうせ着せるなら人間の方が服は生きる。彼女の言い分は一理あるような気もしたけれど、学内で早くも名を轟かせている才媛のパートナーになるなんて、と気後れしたのが本音だった。デザイナーになりたいとか、アパレルの仕事に就きたいとか、そんな明確な夢は私にはない。家から追い出されるまま、誰にも必要とされないまま流れ着いたのだ。逡巡する私からなおも視線を逸らさないくるみは、ついぞとどめの一言で私の心臓をわし掴む。

「私が欲しがってる、だからあなたは私のトルソーになる。……それで何か都合が悪いことでもあるの? ねえ? 河合涼子さん」

 大きな瞳がきらきらと輝きを放ちながら私を映した。――それまでの人生で、誰かがこんなにも熱烈に私を必要としたことがあっただろうか?

いずれグループ制作なども始まるから、少人数でもチームを作る必要はあって。だから彼女の申し出はこれ以上ない奇跡で。無垢な暴君の命令に、気がつけば私は首を縦に振っていた。

 

 

 

 あっさり私の家に上がり込んで「ルームシェア」を始めたくるみは、とにかく無邪気な王様だった。我儘でマイペースに人を振り回しながら、しかしそこに悪意がなくて憎めない。庇護欲を巧みにくすぐる、魔性めいた女の子。周りに人が集まるのも当然だろう、と納得した。何しろ私自身が、彼女の魅力に囚われてしまっていたのだから。

くるみはロリータチックなワンピースを作っては、私に何度も試着させて着心地や色合いの感想を求めた。面長の顔に一重のつり目と薄い唇を揃えた、男にも間違われがちな私には到底似合わない服だ。そんな女の意見など、とは思うけれど、くるみにまっすぐ見つめられると、自白剤でも飲まされたかのように彼女の才能を讃えてしまう。美しい女が満足げにふふん、と鼻を鳴らして笑ってみせるその顔が、いつの間にかたまらなく好きになってしまっていたのだ。私に似合うかはさておき、彼女のセンスも才能も一級品であるのは明らかで、非の打ち所など私には見つけられなかった。

「もし涼子に似合わなかったとしても、涼子の体で服が映えればそれでいいの。涼子は私専用のトルソーなんだもの、ね?」

腰にまとわりつかれて猫撫で声で囁かれる度、私は酷い幸福感に満たされた。

トルソー。首も、腕も、脚もない彫像。

くるみにとって私は、その程度の存在だ。胴体さえ彼女のお眼鏡に適うなら、私である必要はない。それでもくるみは私を見つけ出し、必要だと言ってくれた。たとえ身体の一部分でも必要としてもらえるなら、彼女の傲慢で不遜な独占欲を一身に受けていられるなら、それだけで他のことはどうでもよかったのだ。

くるみの新作は課題発表の度に学内で高評価を得たし、文化祭のファッションコンテストでは最優秀賞も獲得した。皆から称えられるその服が、私の身体を利用して作られたのだという事実だけで、卒倒してしまいそうなほど気持ちがよかった。

 

 

 

彼女と出会ってからもう一年が経つ。輪から外れた人間からも遠巻きに熱い視線を送られる人気者……のパートナーになったからには、少なからず私にも影響があった。気付けば私に声をかけてくる人間も増えて、新作のモデルを頼まれることもしばしばあった。多少顔が地味でもくるみのお墨付きならば、わざわざモデル専攻の学科生に声をかけるより楽だと思われたのだろう。その度にくるみが面白くなさそうな顔をするのがたまらなくて、わざとその日の帰りを遅らせることも次第に増えていった。

くるみは後から帰ってくる私に気を遣っているのか、先に帰っても鍵を開けたままでいる。そのまますんなりと家に入って、くるみに向かってただいまと言う。そして「やっぱりくるみが一番だよ」と微笑んで、他の人間から盗んだ技術を彼女に伝える。それが、ここ最近の流れになっていたものだ。私の話を聞き流しているように見せて、くるみが陰でそれを会得しようと躍起になっていることを知っていた。彼女はあくまで自分がトップに立つためにやっているのだろうけれど、私にはそれが所有物を取られそうになっている焦燥のように思えて、勝手に喜んでいた記憶がある。

……だから、今日も他人の新作の試着を手伝って、いつものように遅くに帰った。そして、くるみにただいまを言うはずだったのだ。普段ならばしっかり閉じられている戸が中途半端に開いているのを怪訝に思って、私はそっと息を潜めて部屋の中を覗き込んだ。家の鍵が開いているのだからくるみは室内にいるのだろうと、たいした考えもなしに。

「助けて、やだっ、やだぁっ! あ、っ……!」

 どこかで見た覚えのある小太りの男が、くるみに跨がって腰を振っている。小さくて華奢な身体を何度も暴れさせながら泣き喚く彼女の右頬は赤黒く腫れ上がっていて、口の端に滲む血から、抵抗して殴られたのだと察せられた。

私の帰りを待って鍵を開けていたばかりに、妙な男に家まで尾行されたくるみは、こうして犯されているのだろうか。思い出した、彼は一年の時の基礎クラスで、私の隣席に座っていた目立たない男子だ。学内でもよく物陰から、くるみのことを追い回して眺めていたように思う。もっとも当の本人は彼の存在になど気付いていなかったようだから、私もわざわざ教えるようなこともしなかった。それがまさか学校の敷地内だけでは飽き足らず、家まで来た挙句に乗り込んでくるとは思ってもいなかったけれど。

助けなければ! という焦燥が胸の鼓動を打ち鳴らすのに、私の頭は状況を確かめては推論を弾き出すばかりだ。足はフローリングから一歩も動かせないし、喉は異常なまでに乾いて声も出せない。その場に立ち尽くして、醜い男の肥えた背中が、ひたすら前後に揺れるのを見ていた。暴かれたくるみの色、無遠慮な凶器が入り込んだ哀れな箇所が網膜に焼きつく。

自信満々に微笑むくるみ。猫撫で声で甘えるくるみ。私が他人の作品に協力するのを、不愉快そうにしていたくるみ。出会い、共同生活を始めてからの一年で、私はさまざまな彼女の顔を見てきたはずだ。けれどあんな、苦痛と絶望にまみれて高い声で鳴く彼女は知らない。

「いや、ッ! 涼子っ、いたい、助けて……! 涼子!! りょうこ……っ、」

彼女の唇が、咽喉が、必死に私の名前を叫んだ瞬間。それまでこわばって固まっていた身体から、どっと力が抜けた。その場にへたり込んで、それでも私は、くるみが犯されている場面から目を離さない。

これまでたくさんの友達や信者を従えてカリスマ性を誇っていたくるみが、ここぞという時に私を呼んだのだ。私の名前に縋って、ないた。頭蓋を満たしたのは、――途方もない悦楽。

 

 あの無垢な暴君が、持ち物にすぎないトルソー(わたし)を心底求めている!

 

ジーンズをくつろげて下着の中に手を突っ込むと、そこはぬらりと熱く湿っていた。入浴時以外には滅多に触れない部分を指でなぞりながら、目の前で男の凶器に蹂躙されているくるみの秘所との違いを探すようにまさぐる。はしたない粘性の音を奏でたのは、くるみだったのか私だったのか。それさえもわからないまま、私はくるみの痛々しい痴態に没頭した。

トルソー。首も、腕も、脚もない彫像。くるみにとって、私はその程度の存在だ。そのはずだった。それが今、腕が生え、脚が生え、そして首は持ち主の方を向いて、自分自身の意志で戯れに興じている。

くるみのみっともない顔を、所有物の私に助けを乞う声を。ずっと知りたかったのかも知れない。求められる喜びは、誰かに必要とされた幸福は、私に浅ましい独占欲を植えつけた。私の胴体ならばいくらでも、求められるままに捧げ続ける。だからその代わりに、私はくるみのすべてが見たい。そしてそのひとつひとつの表情も言葉も、吐息でさえ、誰かに譲ることなどするものか。途端に今この一瞬でさえもう惜しくなる。

この刹那すら、くるみを汚い脂肪の塊に渡しておくのが許せなくなって。

びくりと内股が震えて、私はかはっ、と掠れた笑い声を漏らした。妙な熱に浮かされた心地のまま、携帯している裁縫セットの断ち切りばさみをトートバッグから取り出す。存外すぐに出てきたそれは、ふらふら立ち上がった私の右手にずっしりこびりついた感覚を与えた。自分の分泌液で汚れた指が、私の唯一の取り柄のための道具に絡む。普段使う時とは違う手つきで握って、私はようやく足を前に蹴り出すことができた。乱暴に蹴開かれたドアに振り向いた男の顔面に、迷いなくはさみを突き立てる。男の悲鳴と、女の悲鳴。野太い方ばかりが耳障りだという冷静な思考だけが端にあって、身体は作業のように金属を肉に刺して抜いてを繰り返す。暴れていた男が黙ったところで、ようやくその脂肪の塊を蹴飛ばしてくるみの上から退けた。

「遅くなってごめんね。今日も手伝いに行ってたんだけど、やっぱりくるみが一番だったよ。それでね、」

くるみは色白の顔をさらに青褪めさせて、ベッドに転がった男と私を交互に見た。長い睫毛も唇も、身体全体もがたがたと大きく震えている。その顔は初めてだ。血のついたはさみをカーペットに投げ捨てて抱き締めると、くるみの震えはますます酷くなったようだった。それまでずっと言いなりでいた持ち物であるトルソーが、いきなり動き出したことに驚いているのかもしれない。

「心配しないでいいよ、くるみ……」

くるみの持ち物になったおかげで、私は命を与えられ、能動的に動く人間になれた。こんな感情を知った今となっては、くるみから離れることなどできそうにない。これは生涯をかけて報いるべき恩だ。だからこれからも、ずっと彼女の傍にあり続けよう。その誓いを口にしようと思ったら、途端に興奮して吐息が混じった。

「私は、永遠にきみのトルソーだから」