朱雀野にて

一次創作を書き散らしたりお知らせしたり

ハネムーンの夜に月は出ていない

昔のブログからお引っ越し。

Twitterで話題になっていたタグ「#男女心中道行電車100字書き出し」というものに便乗した際の文を使って、一本上げてみました。リハビリがてらに。

 

***

 

 真冬の海に向かっている。降車駅が近付くにつれて客足は減り、会話のない私たちだけがそこに残されていた。かたん、かたん。凍てつくしじまの中で恋人は揺れる。片道切符代わりのPASMOは、残金三十二円である。持っていたところで何を買うあてもないから、と捨ててきたおかげで、財布の中にも折り目だらけの千円一枚しか入っていない。駅に着いて乗り越し金を払ったら、この電子カードも長財布も用済みだ。それだけではない。今私が履いているキャメル色のムートンブーツも、砂浜に降り立ったら置き去りにされる。今隣で揺られている男が、付き合ってから初めて迎えた私の誕生日にくれたもの。靴の造りが大きいのか少しだけ緩いこのブーツを、私は毎年冬になると必ず履いていた。大切に扱っているつもりでもう五年、じっと俯いてみると、それは随分とくたびれて汚れている。

「こわい?」

 静寂に爪をあえかに立てたような声がして、私は思い出に浸る意識をゆっくりと浮上させてそちらに顔を向けた。隣に座っている青年が、蝋人形のような無機質さのまま私を静かに見据えている。私の恋人。付き合って五年目になる私の恋人。その眼差しにも声音にも、一切の感情が滲んでいないのがありありと分かる。たくさんの日々を共有してきたというのに、彼が何を思って、何を考えて私に声をかけたのかは分からなかった。私に対する気遣いであるとか、心配であるとか、愛であるとか。どうかそういうものでなければいいな、と思うことしか、今の私には出来ないのだ。あわよくばそれが、私に対する呪いであってほしかった。

「怖くないよ」

 私は疲弊して引き攣る目尻を無理矢理下げて、にへら、と力のない笑みを浮かべる。きっとさぞ不気味な形相になっているのだろうと自分でも分かって、すぐにまた顔を下げて彼の眼差しから逃げた。彼は私の笑顔が好きである。その男は初めて出会った時から私の笑顔を誉めそやし、告白の際にさえ君の笑顔が大好きだと告げたほどだった。けれど今の私はきっともう、あなたの心底愛した顔では笑えない。死を前にしてなお無邪気にきらきら笑えていられるほど、私は完成されてもいなければ強気に振る舞えもしなかった。これから一緒に地獄へ落ちるというのに、今さら愛想を尽かされるのも味気ない。

 私たちは、死に場所を目指して夜に揺れている。

 何ということはない、ありふれた悲劇だ。私も彼も夢を追って京へ上り、そこで容易く現実に叩きのめされて、それでも互いを励まし慰め合いながら生きて、息をして、そして、それが出来なくなっただけ。金があることは幸福に対して絶対ではないけれど、最低限の条件であると知った。金がないことはそれだけで不幸だ。欲しいものが買えないとか、それ以前に、夢を叶えたい私たちから生きる術さえ奪うのだから。

 彼が愛した私はもうその通りに笑えなくなったし、私が愛した彼はもう出会った頃の情熱を燃やし尽くしてしまった。笑いもせず、抑揚もない声で、怖い? と問いかける彼に、私が心底惚れていた面影はもうどこにもない。それでも私はまだ、彼のことを愛しいと思っているのだった。苦しい時に抱き締めてくれた、私が必要だと言ってくれた、私の必要に応えてくれた。もうそこに初々しいかつての恋愛感情はない。けれど離れようとするには、あまりに私たちは傷口を共有しすぎてしまった。そこはもう膿んで癒着して、切り離せないまま壊死してしまっている。

 夢を追うには老いすぎて、無為に生きるには若すぎた。

「……おれのために、」

「やめて」

 再び口を開こうとした男を、私は心からの怒りを込めて牽制した。彼の口ぶりから何を言おうとしたか、それとなく察しがついたからだ。そして彼が次に言う言葉も、私にはもう分かってしまっている。

「新婚旅行だよ、今。寂しくなること言わないで」

 彼はきっと、私を切り捨てることが出来るのだろう。私をまだ愛しているから、私だけを生かすことを提案出来てしまうのだろう。けれどそれを私は望まない。生かされて、あなたが一人で冷たく死んだことを背負う羽目になるのは絶対に嫌だ。もう生きてはいけない世界で、人ひとりの怨霊まで抱いていけるものか。ああ愛しい人、大好きな人。私はあなたに依存して、依存されることに悦んでいるのに。それでもあなたはまだ、私を眩しく愛そうとしてくれる。でももうそれはいらないのだ。私が欲しいのは、みっともない執着と呪いだけ。お前だけは俺を置いていかないよな、俺と一緒に死んでくれるよな。そうやって求めてほしいだけ。弱くて、ずるくて、ごめんなさい。死ぬ理由にさえあなたを巻き込んでいる。

 金の為に諸々人の道を外れた私たちは、今宵、どっぷり黒い海へと還る。そこは地獄に繋がっている。私たちは冥府に嫁入りして、あるいは婿入りして、終わらない祝言を挙げるのだろう。新婚旅行だ。終わらない蜜月が始まるのだ。彼が返事もなく俯いた時、ぷしゅうと電車のドアが開いた。私たちが目指していた海の匂いが、かすかに、寂れたホームにも届いている。私はよろよろ立ち上がった彼の隣を歩いて、車庫へ眠りにつくであろう電車からゆっくり降りた。

 薄汚れたムートンブーツが、自分の捨て置かれる場所の土をしんしんと踏む。