朱雀野にて

一次創作を書き散らしたりお知らせしたり

きみのトルソー

8/20のコミティアにて委託する短編集に収録する作品です。

 

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 肌色の肉塊が蠢動している。硬そうな背中が芸のない前後運動を繰り返して、その度に押し潰されそうな華奢な肢体が跳ねて喘ぎ声を上げる。中途半端に開かれた部屋のドアの隙間から覗くその光景に、私はただ立ち尽くすほかに術がなかった。

 

 

 

「やっと見つけた! 私の理想型!」

 榎本くるみにそう声をかけられると同時に抱きつかれたのは、服飾の専門学校に入学して三ヶ月ほど過ぎた、梅雨明け頃のことだった。

この進路は手先の器用さ以外に取り柄のない私に、「芸は身を助けるって言うでしょう」と母が勧めた進路だ。勉強にもスポーツにも秀でた快活な弟に比べて、私はどれをとっても中途半端な子供だった。物音も立てずに、いつも一人で父方の祖母から習った編み物をしている、ぱっとしない子供。優秀な弟ばかり可愛がられるのも当然のことで、同居していた祖母が亡くなってからは、さらに私の居場所は狭くなった。だから母としても、進学を理由に私を家から追い出したかったのだと思う。

私は別段逆らうこともなく、両親が進める手続きの通りに上京して進学した。住む場所だけは自分で決めなければならなかったけれど、学校から近いことだけを理由に、適当な物件の角部屋に決めた。入れ替わりで隣人が学校を卒業して引っ越したからご近所付き合いもなかったけれど、人がいようといまいと私には関係ない。誰の迷惑にもならないよう、隅で黙って裁縫をしているだけ。そうして学校でも一人ぼっちのまま、繰り返し毎日を浪費していた頃だった。

くるみは新入生の代表挨拶にも選ばれた優秀な生徒だった。基礎クラスが同じで彼女のことはよく見かけていたけれど、私の弟のような、勝ち組の人間だと思っていた。小さな顔の中に、長い睫毛に縁取られた大きな瞳と高い鼻、そして柔らかそうな厚い唇が行儀よく並んでいる。百五○センチ前半辺りの小柄な身体に、フリルやレースをたっぷりあしらったフェミニンな服がよく似合っていた。課題とは別に私服も自作しているらしく、自分に似合うファッションを把握している聡い人だという印象もあった。いつも男女を問わない人だかりの中心にいて、皆から愛される憧れの的。私が一方的に羨望している以外に、関わることなどあり得ないはずだった。

動揺する私から離れた彼女は、「あなたの身体に一目惚れしたの」と言う。いやらしい意味ではなくて、モデルやマネキンとして。確かに私は百七十センチを二センチほど上回る長身で痩せ型だけれど、女らしい柔らかさが欠けた貧相な身体はコンプレックスでしかない。しかしくるみは「こんなコルセットしてるみたいなくびれの人、初めて生で見た!」と、抉れたような腹回りを一番に気に入ってくれたらしいのだ。彼女は艶やかな唇で弧を描いて、

「私の専属モデルになってよ」

と私を挑発的な瞳で射抜いた。

どうせ着せるなら人間の方が服は生きる。彼女の言い分は一理あるような気もしたけれど、学内で早くも名を轟かせている才媛のパートナーになるなんて、と気後れしたのが本音だった。デザイナーになりたいとか、アパレルの仕事に就きたいとか、そんな明確な夢は私にはない。家から追い出されるまま、誰にも必要とされないまま流れ着いたのだ。逡巡する私からなおも視線を逸らさないくるみは、ついぞとどめの一言で私の心臓をわし掴む。

「私が欲しがってる、だからあなたは私のトルソーになる。……それで何か都合が悪いことでもあるの? ねえ? 河合涼子さん」

 大きな瞳がきらきらと輝きを放ちながら私を映した。――それまでの人生で、誰かがこんなにも熱烈に私を必要としたことがあっただろうか?

いずれグループ制作なども始まるから、少人数でもチームを作る必要はあって。だから彼女の申し出はこれ以上ない奇跡で。無垢な暴君の命令に、気がつけば私は首を縦に振っていた。

 

 

 

 あっさり私の家に上がり込んで「ルームシェア」を始めたくるみは、とにかく無邪気な王様だった。我儘でマイペースに人を振り回しながら、しかしそこに悪意がなくて憎めない。庇護欲を巧みにくすぐる、魔性めいた女の子。周りに人が集まるのも当然だろう、と納得した。何しろ私自身が、彼女の魅力に囚われてしまっていたのだから。

くるみはロリータチックなワンピースを作っては、私に何度も試着させて着心地や色合いの感想を求めた。面長の顔に一重のつり目と薄い唇を揃えた、男にも間違われがちな私には到底似合わない服だ。そんな女の意見など、とは思うけれど、くるみにまっすぐ見つめられると、自白剤でも飲まされたかのように彼女の才能を讃えてしまう。美しい女が満足げにふふん、と鼻を鳴らして笑ってみせるその顔が、いつの間にかたまらなく好きになってしまっていたのだ。私に似合うかはさておき、彼女のセンスも才能も一級品であるのは明らかで、非の打ち所など私には見つけられなかった。

「もし涼子に似合わなかったとしても、涼子の体で服が映えればそれでいいの。涼子は私専用のトルソーなんだもの、ね?」

腰にまとわりつかれて猫撫で声で囁かれる度、私は酷い幸福感に満たされた。

トルソー。首も、腕も、脚もない彫像。

くるみにとって私は、その程度の存在だ。胴体さえ彼女のお眼鏡に適うなら、私である必要はない。それでもくるみは私を見つけ出し、必要だと言ってくれた。たとえ身体の一部分でも必要としてもらえるなら、彼女の傲慢で不遜な独占欲を一身に受けていられるなら、それだけで他のことはどうでもよかったのだ。

くるみの新作は課題発表の度に学内で高評価を得たし、文化祭のファッションコンテストでは最優秀賞も獲得した。皆から称えられるその服が、私の身体を利用して作られたのだという事実だけで、卒倒してしまいそうなほど気持ちがよかった。

 

 

 

彼女と出会ってからもう一年が経つ。輪から外れた人間からも遠巻きに熱い視線を送られる人気者……のパートナーになったからには、少なからず私にも影響があった。気付けば私に声をかけてくる人間も増えて、新作のモデルを頼まれることもしばしばあった。多少顔が地味でもくるみのお墨付きならば、わざわざモデル専攻の学科生に声をかけるより楽だと思われたのだろう。その度にくるみが面白くなさそうな顔をするのがたまらなくて、わざとその日の帰りを遅らせることも次第に増えていった。

くるみは後から帰ってくる私に気を遣っているのか、先に帰っても鍵を開けたままでいる。そのまますんなりと家に入って、くるみに向かってただいまと言う。そして「やっぱりくるみが一番だよ」と微笑んで、他の人間から盗んだ技術を彼女に伝える。それが、ここ最近の流れになっていたものだ。私の話を聞き流しているように見せて、くるみが陰でそれを会得しようと躍起になっていることを知っていた。彼女はあくまで自分がトップに立つためにやっているのだろうけれど、私にはそれが所有物を取られそうになっている焦燥のように思えて、勝手に喜んでいた記憶がある。

……だから、今日も他人の新作の試着を手伝って、いつものように遅くに帰った。そして、くるみにただいまを言うはずだったのだ。普段ならばしっかり閉じられている戸が中途半端に開いているのを怪訝に思って、私はそっと息を潜めて部屋の中を覗き込んだ。家の鍵が開いているのだからくるみは室内にいるのだろうと、たいした考えもなしに。

「助けて、やだっ、やだぁっ! あ、っ……!」

 どこかで見た覚えのある小太りの男が、くるみに跨がって腰を振っている。小さくて華奢な身体を何度も暴れさせながら泣き喚く彼女の右頬は赤黒く腫れ上がっていて、口の端に滲む血から、抵抗して殴られたのだと察せられた。

私の帰りを待って鍵を開けていたばかりに、妙な男に家まで尾行されたくるみは、こうして犯されているのだろうか。思い出した、彼は一年の時の基礎クラスで、私の隣席に座っていた目立たない男子だ。学内でもよく物陰から、くるみのことを追い回して眺めていたように思う。もっとも当の本人は彼の存在になど気付いていなかったようだから、私もわざわざ教えるようなこともしなかった。それがまさか学校の敷地内だけでは飽き足らず、家まで来た挙句に乗り込んでくるとは思ってもいなかったけれど。

助けなければ! という焦燥が胸の鼓動を打ち鳴らすのに、私の頭は状況を確かめては推論を弾き出すばかりだ。足はフローリングから一歩も動かせないし、喉は異常なまでに乾いて声も出せない。その場に立ち尽くして、醜い男の肥えた背中が、ひたすら前後に揺れるのを見ていた。暴かれたくるみの色、無遠慮な凶器が入り込んだ哀れな箇所が網膜に焼きつく。

自信満々に微笑むくるみ。猫撫で声で甘えるくるみ。私が他人の作品に協力するのを、不愉快そうにしていたくるみ。出会い、共同生活を始めてからの一年で、私はさまざまな彼女の顔を見てきたはずだ。けれどあんな、苦痛と絶望にまみれて高い声で鳴く彼女は知らない。

「いや、ッ! 涼子っ、いたい、助けて……! 涼子!! りょうこ……っ、」

彼女の唇が、咽喉が、必死に私の名前を叫んだ瞬間。それまでこわばって固まっていた身体から、どっと力が抜けた。その場にへたり込んで、それでも私は、くるみが犯されている場面から目を離さない。

これまでたくさんの友達や信者を従えてカリスマ性を誇っていたくるみが、ここぞという時に私を呼んだのだ。私の名前に縋って、ないた。頭蓋を満たしたのは、――途方もない悦楽。

 

 あの無垢な暴君が、持ち物にすぎないトルソー(わたし)を心底求めている!

 

ジーンズをくつろげて下着の中に手を突っ込むと、そこはぬらりと熱く湿っていた。入浴時以外には滅多に触れない部分を指でなぞりながら、目の前で男の凶器に蹂躙されているくるみの秘所との違いを探すようにまさぐる。はしたない粘性の音を奏でたのは、くるみだったのか私だったのか。それさえもわからないまま、私はくるみの痛々しい痴態に没頭した。

トルソー。首も、腕も、脚もない彫像。くるみにとって、私はその程度の存在だ。そのはずだった。それが今、腕が生え、脚が生え、そして首は持ち主の方を向いて、自分自身の意志で戯れに興じている。

くるみのみっともない顔を、所有物の私に助けを乞う声を。ずっと知りたかったのかも知れない。求められる喜びは、誰かに必要とされた幸福は、私に浅ましい独占欲を植えつけた。私の胴体ならばいくらでも、求められるままに捧げ続ける。だからその代わりに、私はくるみのすべてが見たい。そしてそのひとつひとつの表情も言葉も、吐息でさえ、誰かに譲ることなどするものか。途端に今この一瞬でさえもう惜しくなる。

この刹那すら、くるみを汚い脂肪の塊に渡しておくのが許せなくなって。

びくりと内股が震えて、私はかはっ、と掠れた笑い声を漏らした。妙な熱に浮かされた心地のまま、携帯している裁縫セットの断ち切りばさみをトートバッグから取り出す。存外すぐに出てきたそれは、ふらふら立ち上がった私の右手にずっしりこびりついた感覚を与えた。自分の分泌液で汚れた指が、私の唯一の取り柄のための道具に絡む。普段使う時とは違う手つきで握って、私はようやく足を前に蹴り出すことができた。乱暴に蹴開かれたドアに振り向いた男の顔面に、迷いなくはさみを突き立てる。男の悲鳴と、女の悲鳴。野太い方ばかりが耳障りだという冷静な思考だけが端にあって、身体は作業のように金属を肉に刺して抜いてを繰り返す。暴れていた男が黙ったところで、ようやくその脂肪の塊を蹴飛ばしてくるみの上から退けた。

「遅くなってごめんね。今日も手伝いに行ってたんだけど、やっぱりくるみが一番だったよ。それでね、」

くるみは色白の顔をさらに青褪めさせて、ベッドに転がった男と私を交互に見た。長い睫毛も唇も、身体全体もがたがたと大きく震えている。その顔は初めてだ。血のついたはさみをカーペットに投げ捨てて抱き締めると、くるみの震えはますます酷くなったようだった。それまでずっと言いなりでいた持ち物であるトルソーが、いきなり動き出したことに驚いているのかもしれない。

「心配しないでいいよ、くるみ……」

くるみの持ち物になったおかげで、私は命を与えられ、能動的に動く人間になれた。こんな感情を知った今となっては、くるみから離れることなどできそうにない。これは生涯をかけて報いるべき恩だ。だからこれからも、ずっと彼女の傍にあり続けよう。その誓いを口にしようと思ったら、途端に興奮して吐息が混じった。

「私は、永遠にきみのトルソーだから」